オリックスバファローズオールタイムベストナイン‼︎ 世界記録を作った2人が打線を牽引する超個性派集団!阪急ブレーブス、ブルーサンダー打線と続く昭和・平成・令和の職人が並ぶ

NPB現行の12球団に、2004年の球界再編問題により吸収合併されてしまった、近鉄バファローズを加えた13球団の、「オールタイムベストナイン」を選んでみたいと思う。球界の歴史の中に埋もれさせたくない選手も数多く選出されると思うが、なんせ私の独断と偏見で選出しているため、いろいろとご異論もあるでしょうが、数ある意見の中の一つとしてご覧いただければと思います。今回は、前進球団阪急ブレーブスからの流れをくむ2022年日本一のオリックスバファローズ編。

オーダー

1.(中)福本豊

2.(右)イチロー

3.(DH)加藤秀司

4.(左)長池徳士

5.(一)ブーマー・ウェルズ

6.(二)ダリル・スペンサー

7.(三)松永浩美

8.(捕)岡村浩二

9.(遊)大穣穣

(投)米田哲也

選考のルール

選考にあたって、いくつかのルールを設けておきたいと思う。

・投手は先発、リリーフという括りはせずに選ぶ。

・野手は各ポジションごとにスターティングメンバーを一人選出し、控え選手も選ぶ。

・一人が、監督、選手として複数のチームに登場する事はしない。

・DH制を採用する。

・外国人枠は撤廃。つまり、全員外国人のオーダーもあり得る。

・複数球団に所属歴のある選手は、全盛期と思われる球団に所属することにする。

・1チームの最大選出人数は、現行のNPBの1軍登録枠の29名までとする。

・当該球団の発展に貢献した人物を、最低1名選ぶ。

・記載の記録は2022年までのNPB通算成績。

球団名の変遷

阪急軍(1936年~1946年)

阪急ブレーブス(1947年~1988年)

オリックスブレーブス(1989年~1990年)

オリックスブルーウェーブ(1991年~2004年)

<2004年に近鉄バファローズを吸収合併>

オリックスバファローズ(2005年~)

ノミネート選手

投手

米田哲也 350勝285敗 2S 防2.91

快速球とカーブ、スライダー、シュート、フォークを武器に歴代2位の350勝を挙げた大エース。「ガソリンタンク」の異名を持つほどの無尽蔵のスタミナで、これまた歴代2位の949試合登板も持ち、先発投手でありながら毎年50試合前後の試合に登板して、昭和30年代の阪急の「灰色の時代」を支えた。

梶本隆夫 254勝255敗 防2.98

ポーカーフェイスで勝ち星よりも内容にこだわった快速球左腕。1956~57年には2年連続年間300奪三振や、1イニング9連続奪三振を2回記録するなど三振の取れる投手であった。米田との「ヨネカジコンビ」で弱い時代を支え、2人で毎年100試合くらいに登板していたタフネス左腕で、通算867登板は歴代4位。後年はパームボールを習得し、投球の幅を広げた。

足立光宏 187勝153敗 3S 防2.91

抜群のコントロールと粘り強い投球が持ち味のサブマリン投手。若い頃は浮き上がる速球を武器としたが、後にシンカーを習得し長く現役を続けた。日本シリーズ男であり、ONのいたV9時代の巨人から8勝を挙げている。フィールディングも巧みでダイヤモンドグラブ賞を4度受賞している。

山田久志 284勝166敗 43S 防3.18

アンダースロー最多勝。全盛期はど真ん中のストレートでも簡単には打たれなかったほどの球威を誇った。後に魔球シンカーを習得し大エースとなり、1970年代の阪急ブレーブスの黄金時代の中心人物となる。MVP3度受賞は投手最多。

山口高志 50勝43敗 44S 防3.18

「史上最も速いボールを投げたのは誰か?」という論争で必ず名が挙がる豪速球投手。ボディビルダーのような体から唸るような速球を連発した。ゆえに故障も多く、活躍出来たのは4年だけだが、球界に強烈なインパクトを残した。指導者としての評価も高い。

佐藤義則 165勝137敗 48S 防3.97

前進を大きく使ったダイナミックなフォームで先発から抑えまでフル回転し、44歳まで投げ続けた鉄腕。親指と人差し指の間から落とす「ヨシボール」を武器に40歳でノーヒットノーランを達成。日本一の投手コーチとの呼び声も高い。

星野伸之 176勝140敗 2S 防3.64

130km/h前後のストレートに、80km/h前後のスローカーブを織り交ぜた緩急で打者を幻惑した巧投手。テイクバックの小さなフォームから大きく腕を振る独特のフォームから繰り出すストレートの体感速度は約160km/hとも言われた。完投と奪三振も多く11年連続2桁勝利を挙げたオリックスの初代エース。

金子千尋 129勝92敗 5S 8H 防3.07

最速154km/hのフォーシームに7~8種類の変化球を投げ分ける平成後期のエース。コントロールも抜群で与四球も少なく、安定して勝ち星を計算できる投手。ファッションやヘアースタイルがおしゃれな事でも話題に挙がる2000年代のトレンディエース。

山本由伸 54勝23敗1S32H 防1.95

最速158km/hの伸びのあるフォーシームと切れ味鋭いスプリットを中心に、多彩な変化球を操る現エース。代表でも主軸投手として活躍し、WBCでもエース格として期待がかかる現NPBで最高の投手。柔軟性を生かしたしなやかなフォームは未だ成長途上で底を見せていない。2022年6月18日ノーヒットノーラン達成。

捕手

岡村浩二 .224本85点395

立大を2年で中退して1961年に阪急に入団。日本シリーズ初の退場処分ばかりがクローズアップされがちだが、堅実な守備能力を誇り、ブロックの名手として名を馳せた。また、荒っぽいが一発長打を秘めた打撃も魅力で1967年からのリーグ3連覇に貢献し、69年には野村克也を押しのけてベストナインを受賞。

中沢伸二 .225本61点296

阪急一筋21年、上田阪急の第2次黄金時代の正捕手として堅実な守備力と巧みなリードでチームを支えた。一軍定着までに10年、規定打席到達までに18年を要した苦労人。

内野手

一塁手

ブーマー・ウェルズ(グレゴリー・ウェルズ) .317本277点901

2mの巨体をほこり、パワーと柔軟性を兼ね備えた打撃で大活躍をしたNPBの歴史上最高クラスの助っ人。1984年に外国人初の三冠王。ホームランを量産しつつ4年連続170安打以上を記録し、三振も年平均33個と非常に確実性が高かった。当時のパ・リーグが人気が低かったため、注目度も低く実力よりも過小評価されてしまっている選手の1人。

二塁手

ダリル・スペンサー .275本152点391

走攻守3拍子揃った大型二塁手。メジャーの実績者として1964年に来日し、本場のベースボールを日本に持ち込んだ野球版の「黒船」。野村克也と激しく三冠王を争った。8打席連続敬遠に怒ってバットを逆さに持った事もある(それでも敬遠)。投手のクセを観察して書き溜めて、次の投球を見抜いて打つ頭脳プレーを広めた功績は大きい。また、サイクルヒットの概念を日本に持ち込んだと言われている。

三塁手

松永浩美 .293本203点855

日本最高のスイッチヒッターの呼び声も高い、走攻守3拍子揃ったヒットメーカー。NPB初の1試合左右両打席本塁打を達成している。確実性に長打力を併せ持つ一方で、盗塁王も獲得している。左右両打席で同じレベルでのバットコントロールを可能にした唯一の選手。1厘差以内で首位打者を逃した事が2度あり、1位の選手はどちらもロッテ。首位打者と2000安打を達成して欲しかった選手。

遊撃手

大橋穣 .210本96点311

日本最高の守備の名手として、関係者では必ず名前の挙がる選手。入団は東映フライヤーズ。レギュラーであったが2年後に阪急へトレード。あまりの超強肩ぶりに、本拠地西宮球場の内野の芝を刈って外野付近まで深く守り、驚異的な守備範囲を可能にしていた逸話がある。引退後は指導者としてもクラブの使い方からスパイクの刃先の使い方までを伝授し、多くの名手を育て上げた。

内野手控え

ラリー・レインズ .302本32点172

1953年に23歳で来日。リードオフを務め開幕から20試合連続安打を放つ。「黒い稲呼ばれ呼ばれ1年目は61盗塁で盗塁王。次打者の初球で必ず走ってスタンドを沸かせた。2年目は3番を努めて首位打者を獲得し、最多安打を放つ活躍。鉄砲型でも名を馳せた。同年オフにメジャーリーグに挑戦し、クリーブランドインディアンズと契約。

河野旭輝 .254本93点480

ルーキーイヤーの1954年に二塁手のレギュラーを獲得、レインズが帰国した翌年は遊撃手に回り、1956年に85盗塁で盗塁王を獲得し、黎明期のスピードスターとして活躍。この記録は1972年に福本に抜かれるまで日本記録であった(ちなみに1~3位まで福本が保持)。1959年には中堅手にコンバート、中日に移籍後1962年にセ・パ両リーグ盗塁王となる。この記録は現在も河野ただ1人である。

ボビー・マルカーノ .287本232点817

長く活躍したベネズエラ出身の名手で、強肩巧打の2塁手として活躍。メジャー経験はなかったが、勝負強い打撃で球団初の日本一に貢献し、阪急の黄金時代を中心選手として支えた。後にヤクルトスワローズでも中軸として活躍。引退後は巨人で中南米担当スカウトを務めた。

外野手

左翼手

長池徳士 .285本338点969

1960年代後半から1970年代のパ・リーグを代表する右の長距離砲で、黄金時代の不動の4番。勝負強い打撃で日本シリーズV3に大貢献。同時代のライバル大杉勝男と激しく本塁打王を争った。俊足と強肩も武器にしていた。32試合連続安打のパ・リーグ記録保持者。

中堅手

福本豊 .291本208点884

世界の盗塁王。通算1065盗塁、シーズン106盗塁はいずれもNPB記録であり、かつての世界記録。13年連続盗塁王、ダイヤモンドグラブ賞12回もNPB最多記録であり、俊足と広い守備範囲で1番センターを長く務め、阪急黄金時代の核として球史に残る大活躍をした。

右翼手

イチロー(鈴木一朗) .353本118点529

日本が生んだ世界最高のプレーヤー。打撃技術・長打力・快足・守備力・強肩の全てを兼ね備えた5ツールプレーヤーであり、NPB史上初の全天候型天才。オリックス在籍時は7年連続首位打者で、史上初のシーズン200安打。1995~96年の連覇に貢献。2001年にメジャーへ渡り、2004年にシーズン262安打のMLB記録を樹立。日本代表としても2度のWBC制覇にチームリーダーとして牽引。日米通算では.322、235本塁打708盗塁で、4367安打は世界記録。

外野手控え

簑田浩二 .279本204点678

走攻守3拍子揃った名手で。1983年にはトリプルスリーを達成しているが、1980年には32本塁打39盗塁31犠打という世界唯一の組み合わせでのトリプルスリーを達成している万能選手。守備も抜群で8年連続ダイヤモンドグラブ賞を獲得。1988年に巨人に移籍して翌年両リーグ日本一を経験。

石嶺和彦 .273本269点875

入団時のポジションは捕手であったが、半月板を痛めたために外野手へコンバート。そこから長打力が開花し、主に指名打者として長きに渡り活躍。阪急からオリックスへと移り変わる過渡期を主砲として支えたブルーサンダー打線の象徴的存在。

本西厚博 .258本22点240

内野手としての入団だが、プロ入り後に外野手に転向した90年代最高の外野守備力を誇った名手。後にメジャーリーガーとなるイチローと田口壮に守備と走塁の基本をたたき込み、95、96年の連覇に大貢献。三塁手としても堅い守りを見せた。阪急時代から続く堅守の正統な継承者。

藤井康雄 .252本282点861

アマ全日本の4番打者を経ての入団。2年目からレギュラーとなり、貴重な左の和製大砲として長く主軸を務めた。非常に本塁打率が高く、またチャンスにも強い打者であり、通算満塁本塁打は歴代3位の14本。

谷佳知 .297本133点741

アトランタ五輪日本代表の3番打者。プロ入り後は主に1番~3番打者を務めた典型的な中距離打者。安打数が多く毎年のように首位打者争いを展開。俊足に好守と3拍子揃った好選手。シーズン最多二塁打52本のNPB記録保持者。2000本安打と首位打者を達成して欲しかった選手。

吉田正尚 .327本133点467

現役では最高クラスの好打者。鋭いスイングから生み出される強烈な打球スピードは球界トップクラス。高い長打率を誇りながら三振が少ない確実性も特徴で、2年連続首位打者を獲得。毎年4割を超える出塁率を記録しながらボールに対するコンタクト率も年々上昇しており、今後のさらなる進化が楽しみなパリーグNo.1打者。

指名打者

加藤秀司 .297本347点1268

阪急黄金時代に3番打者として日本一に貢献。巧みなバットコントロールとチャンスに強い打撃で毎年高打率をマークし、首位打者2回と打点王を3回獲得。79年には3冠王にも肉薄。いとも簡単に犠牲フライを打ち上げる技術は見事で阪急の得点パターンだった。

監督

西本幸雄

1960年までは毎日オリオンズの監督を務めていたが、オーナーと対立して退団。1961年に阪急のコーチに就任。翌年に監督に昇格して当時弱小球団であったブレーブスを基礎から厳しく鍛え上げて1967年の初優勝へと導き、常勝軍団へと育て上げた。後に近鉄バファローズでも監督を務め、弱小球団を初優勝へと導き、監督を務めた3球団全てを優勝へと導いた球史に残る名将。

特別功労枠

ロベルト・バルボン (通訳)

1954年に革命前のキューバから来日。俊足巧打の2塁手として活躍し、外国人初の盗塁王(3年連続)と1000本安打を達成。引退後は上田利治監督に請われ阪急のコーチとなる。コーチを辞した後は名物通訳として外国人選手を強力にサポート。その後はファンサービス部へ異動となり現在も球団と関わり続けている。

このメンバーでペナントレースをシュミレーションしてみる

投手は全体的に完投能力が高く、先発もリリーフもこなせるメンバーが揃っており、かなり強力なメンバー。左右の速球派と技巧派も揃っておりバランスがいいので9人体制。先発は米田、梶本、山田、足立、山本の5本柱。多彩な変化球を操る金子と、緩急で勝負する星野がセットアップに回り、40歳でノーヒッターになった佐藤と、球史に残る快速球投手の山口高志のダブルクローザーで盤石の布陣。一塁手はブーマーの1択。

捕手は岡村浩二を正捕手に据える。中沢伸二の好リードも捨てがたいが、1967年の初優勝に貢献してリーグ3連覇達成時の正捕手であることと、何より規定打席に達成した年数が最も多いことから文句なしの選出。1969年にはあの野村克也を抑えてベストナインを受賞。現監督の中嶋聡の超強肩も凄かった。捕手登録が2名なのは、外野手の石嶺和彦の入団時のポジションが捕手だったからである。よってここは石嶺に外野と兼務してもらう。

内野手は外野手に比べると意外と層は薄いが強力なメンバーが揃っている。まずこのチームの基本線は走るチームであるということ。その系譜を作ったのは1953年の盗塁王ラリー・レインズである。その後1956年から1960年にかけて河野旭輝が2年連続、バルボンが3年連続と阪急勢が5年連続で獲得する。その後も松本公士、坂本敏三を経て世界の盗塁王福本豊が13年連続で獲得することになる。その後イチローの登場によりそのイメージはオリックスに親会社が変わっても不動のものとなる。また、守備力と長打力を併せ持った選手が多いのも特徴で、特に阪急時代は不動のオーダーで鉄壁の守備を誇った。野手での悩みどころは長池、ブーマー、加藤秀司の使い分け。長池は俊足と強肩も武器としているので左翼で当確。加藤は一塁も外野も守ったが、ブーマーの守備力の方が上とみてDHに回ってもらうことにした。セカンドはスペンサーを選出。対戦相手のデータを緻密に書き込んだ「スペンサーメモ」は、後の阪急の先述に大きな影響を与えた。ベネズエラ出身で長く活躍したボビー・マルカーノも捨てがたい。サードは松永浩美で決まり。歴代有数のスイッチヒッターとして走攻守で80年代の阪急を牽引。ショートは歴代最高の守備力を誇ったと言われる大橋穣を選んだ。ラリー・レインズ、河野旭輝など、走るチームの基盤を築いた黎明期の名手もいる中で大橋を選出したのは、球界の中での評価の高さである。大橋の超強肩のために内野の芝をさらに深い位置まで刈り上げたという逸話を持つ。外野手は2人の世界記録達成経験者の中堅の福本豊と右翼のイチローは無条件で当確。福本とイチローは共に1番打者タイプであるが、盗塁数の多い福本をトップに置き、万能型のイチローを2番にすることで攻撃の幅を広げていく。3番に加藤、4番に長池を据えることで1番から4番まで走れるオーダーとなる。ブーマーのパワーと安定感は歴代トップクラスだが、黄金時代の主砲に敬意を表し長池が4番。5ツールプレーヤーの簑田浩二を入れると最強外野守備陣が形成出来るが、長池の長打力を選択した。

この守備力と打力を兼ね備えた強力打線の中で本西厚博を選出しているのは、内外野両方をこなせるユーティリティプレーヤーだからである。ドラフトの翌年の都市対抗野球終了後に入団を決定した珍しいケースでの加入。後にメジャーリーガーとなるイチローと田口壮に守備と走塁の技術を伝授して、阪急からの鉄壁の外野守備と走る野球の正統な継承者であり、その系譜を現代まで繋いでいる功労者である。

逆に藤井康雄はアマ全日本の4番として長打力を買われての入団。引退間際まで長打力は進化し続けていた。彼も一塁手と外野手を兼務した選手である。

同じくアマ全日本でクリーンナップを務めた谷佳知も3拍子揃った好選手。現役最高の打者である吉田正尚も高い打撃技術を持っている。

監督は師弟関係にある西本幸雄と上田利治の2人の名将で悩んだが、弱小球団であった阪急ブレーブスを基礎から強化して常勝軍団に育て上げた手腕に敬意を表し西本幸雄を選んだ。監督を務めた3球団全てをリーグ優勝に導き、特に阪急と近鉄は就任前は毎年最下位争いをすほどの弱小球団であったが、チームの体質を180度作り変えて複数球団を優勝させた例はほとんどない。しかしながら日本一には縁がなく「悲運の名将」と呼ばれるが、それは彼の評価を下げる事には全くなっておらず、育てながら勝たせられる監督して、日本野球界トップクラスの名将としてその功績は輝き続けている。

その後を継いだ上田利治は、人心掌握術に長けた名将であり、球団初の日本一を達成して長きに渡りチームの黄金時代を築き上げた。彼にはヘッドコーチとして西本監督を支えてもらうことにする。

最後に特別功労枠に「チコ」の愛称で親しまれたロベルト・バルボンを入れたい。引退後に球団職員となり、流暢な関西弁を操る名物通訳として人気者に。約60年近くにわたって球団に携わり、ファンに愛され続けている彼をおいて他にいないであろう。

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