去る12月11日、神宮球場にて元プロ野球選手、監督の野村克也氏を偲ぶ会が執り行われた。屋外で執り行われたため、晴天に恵まれたようで何よりである。
それにしても、参列された方々は当然といえば当然なのだが錚々たる顔触れである。
中でも野村氏の教え子の中には、プロアマ問わず各方面で指導者となられた方が非常に多い。
生前、野村氏は
「財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すは上とする」と常々話していた。
今まさに、その言葉通りになっている。野村の教えが球界全体に行き渡っているのである。
野村氏は、日頃から「人間力」を磨く事にこだわり、キャンプ中のミーティングでも、野球選手としてよりも、一社会人としての教えについての講義が主であったようである。
そんな野村の教えも、様々な恩師の影響を受けながら築き上げていったようである。
今回は、野村氏のその後の野球人生に影響を与えたであろう3人の恩師についてお話しさせていただきたい。
まずは、人間形成を大事にされた野村氏が、その分野で影響を受けたと思われる清水義一先生という方。
高校時代、野村氏の通っていた京都府立峰山高校の野球部は、監督のいない弱小野球部であった。さらには不良の溜まり場であったことから、そんな野球部は廃部にしてしまおうという動きが高まっており、その先頭に立っていたのが清水先生であった。
「野球部が廃部になってしまったら、プロ野球選手になるという夢が潰えてしまう」
そこで野村氏はある作戦を思いつく。
清水先生は、お寺のお坊さんでもあったそうだが、スポーツには全く興味がなく、野球の知識も全くなし。しかし、2人の息子さんは野球が大好きだったそうで、
「今度峰山高校の練習試合があるから見においで。その時お父さんも必ず連れて来るんだぞ」
と言って、先生をグランドに連れてくることに成功。
当時は娯楽がほとんどなく、野球部の練習試合であっても町民がグランドに集まり、たくさんの声援を送ってくれたそうである。それを見た清水先生は、
「野球ってすごいな。こんなに人気があるのか」
と興味を持ってくれて、そこに畳み掛けるように、
「野球部の顧問になってくれませんか」
とお願いしたところ、快諾してくれたそうである。
かくして、野球部は存続の危機を免れ、野村氏のプロ野球への夢も繋がったのである。
清水先生は、生活が苦しく学費の納入もままならなかった野村氏に、お金を工面してくれた事もあったとの事。南海ホークスに「野村といういいキャッチャーがいるから、ぜひ見に来てください。」と、手紙を事前に送り、入団テストが行われる大阪までの汽車賃まで出してくれたそうだ。
そして晴れて入団テストに合格し、プロ入りに反対する母親を説得してくれたのも清水先生。夢への道筋を作ってくれた清水先生は、紛れもなく野村氏の人間教育の礎となった恩師である。
2人目は、南海ホークス選手時代の恩師、「鶴岡親分」こと、鶴岡一人大監督である。
鶴岡監督というと、いわゆる「精神野球」と思われがちだが、実は日本球界における「データ野球」の先駆者である。
1954年に、当時毎日新聞の記者であった尾張久次氏を、プロ野球初の専属スコアラーとして招聘し、カンが全てだった時代に、データ野球を導入した。当時この試みはメジャーリーグにもなく、世界初のシステムであった。
元々は、当時の契約更改の査定が、「お前は最終的に何勝したからなんぼ、何割打ったからなんぼ」というようないい加減なものであり、こうしたことに疑問をもった鶴岡監督が、一年分の統計を取ると、同じヒット、同じ一勝でも勝ちのある物とそうでないものとが数字ではっきり出て、ピッチャーとバッターとの相性もわかるようになった。このことから
「これからの野球は、カンも大事だが、数字の収集と分析で新しい野球が生まれるだろう」ということになり、試合ごとの打球の方向や性質、投球の傾向などのデータを取り、ミーティングの材料とした。
このデータは「尾張メモ」と呼ばれ、キャッチャーのサインを見てから守備位置を変えるという、それまでの野球には例のなかった作戦が取られるようになり、公式戦や日本シリーズで大いに活用されることとなった。そして、これをきっかけにスコアラーの存在が大きく取り上げられるようになる。
尾張に教えを請いにくる球界関係者は多かったようで、尾張もまたそのノウハウを惜しげもなく教え、球界発展に大きく貢献した。
半世紀以上前の「尾張メモ」は、今でいう「野村ノート」。もはや球界関係者のバイブルとなっている。
また鶴岡監督は、相手の打線をかく乱するために、目まぐるしく投手を変える戦法を使った。アンダースローが出てきたと思ったら、すぐに左投手に交代し、バッターがようやく目が慣れてきたところで右投手にスイッチしたりしていた。
この戦法は、野村氏が監督時に試合終盤に絶対的なクローザーがいなかったり、リリーフ投手が手薄な時によく使った戦法「一人一殺」である。相手の打線が、右・左・右とジグザグに続く時に、自チームの投手も右・左・右と一人ずつ相手をする戦略である。
阪神タイガース監督時在任時によく使っていた、遠山→葛西→遠山、葛西→遠山→葛西などはまさにそうだ。
野村氏が現役時代に、ピンチで強打者を迎え、どうリードすればよいかを鶴岡監督に聞いたところ
「バカたれ!そんなことは自分で勉強せえ!」と返されるのみだったそうだが、それも考える習慣を身に着けさせるための檄だったのではないだろうか?
野村氏といえば、常々「野球は頭のスポーツ」と言って憚らなかったが、その「考える野球」の構築し、野球の戦略的な引き出しを増やす上で多大な影響を及ぼしたのが、南海ホークスで共にプレーし、選手兼任監督時代にヘッドコーチとして支えた、ドン・ブレイザーことドン・ブラッシングゲーム氏である。
ブレイザー氏はクセ盗みの達人であったが、当時の南海ホークスには、そのブレイザーでさえ舌を巻くクセ盗みの達人であった野村氏が主砲として君臨していた。
現役時代の野村氏は、現時点でメジャーリーグ最後の4割打者であるテッド・ウィリアムズの「バッティングの化学」という本を参考にしていたが、ブレイザーが尊敬していた選手もまた、テッド・ウィリアムズである。
2人はすぐに意気投合し、野村氏は、ブレイザーを頻繫に食事に誘い、野球を学んだそうである。
ブレイザーは、単に根性論だった日本の野球に、相手の癖や性格を分析し、状況に応じて臨機応変に作戦を切り替える緻密さを植え付けていった。その野球は「シンキングベースボール」と呼ばれ、日本の野球に革命をもたらした。
頭を使って工夫する事が好きだった野村氏には大いにハマったのだろう。野村氏はシンキングベースボールにのめり込み、とことん追求していく事となる。
こんなエピソードがある。
ブレイザー「ヒットエンドランのサインが出たら、君ならどうする?」
野村「フライと空振りはダメ。どうにかして打球を転がす。」
ブレイザー「それだけ?ランナーがいるということは必ずセカンドかショートがベースカバーに入るのだから、セカンドが入れば一二塁間、ショートが入れば三遊間に転がすんだ。」
と教えてくれて、今では当たり前の理論だが、当時の野村氏は感服したそうだ。
このヒットエンドランの理論は、以下の様に説明することが出来る。野村氏がヤクルトスワローズの監督時代に、選手に質問したエピソードがある。
野村「ヒットエンドランにおける、最高の結果とは?」
と、ある選手に質問したところ、現役時代の野村氏と同じような答えだったらしい。
野村氏が求める正解は「ヒットを打って一・三塁を作ること」である。
ただランナーを二塁に進めるだけなら、送りバントもしくは盗塁でいい。しかしランナーを三塁に置く状況を作りたいからヒットエンドランのサインなのである。
こうした考察を重ねるうちに、サインを出せる選手、出せない選手などもわかってきたのではないか?
野村氏は、「ブレイザーがヘッドコーチじゃなきゃ監督は引き受けなかった」と語るほど、ブレイザーを信頼し、「ID野球の源流」とも語っていた。
以上、野村氏の野球人生に多大なる影響を与えた3名の恩師をご紹介させていただいたが、こうした先人達の教えをミックスさせて練り上げられたものが、今日の我々に伝わる「ノムラの教え」であり、野球界のバイブルとなっている。
そしてその教えを受けた選手達が、今は指導者となられ、継承し続けている。
「ノムラの教え」は、様々な指導者によって書き加えられ、さらに進化をつづけながら、永遠に野球界に生き続けていくだろう。
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